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第5話  言えない言葉

last update publish date: 2026-07-07 13:13:14

家に帰り着いたのは、夜の九時過ぎだった。

雨で濡れた髪をタオルで拭きながら、朱里は鏡の前に立つ。そこに映るのは、頬をほんのり赤らめた自分。

「……何やってるの、私」

独り言をつぶやいて、タオルを投げ出した。

頭の中には、駅前で傘を閉じて振り返った嵩の姿が焼きついて離れない。

『もし本当に嫌われてるなら、僕は困ります』

あの言葉を思い出すだけで、胸が熱くなる。

困る、なんて──どうしてそんなふうに言ってくれるのだろう。

「大嫌い、なんて……嘘ばっかり」

本当は、一度だって嫌いになんて思ったことはない。

むしろ、気づけば視線で追ってしまう。些細な言葉に一喜一憂してしまう。

それを知られたくなくて、つい口をついて出るのは「大嫌い」。

「百回言ったら、好きに変わる……どころか、もうとっくに好きなのに」

ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。

心臓の鼓動がうるさくて、眠れそうになかった。

朱里はスマートフォンを手に取って、連絡先一覧を眺めた。

「平田嵩」という名前に指先が触れる。

けれど、開くこともできず、画面を消した。

言いたいことはたくさんある。

「ありがとう」とか、「優しいところが好き」とか。

でも、口から出てしまうのは「大嫌い」ばかり。

どうしてこんなに素直になれないのだろう。

もしも、正直に伝えたら……彼は笑ってくれるだろうか。

それとも、困ったように距離を置かれてしまうのだろうか。

「……怖い」

ぽつりとつぶやいて、朱里は目を閉じた。

眠りに落ちる寸前、心の中で繰り返したのは───

「大嫌い」ではなく、「好き」という言葉だった。

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